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2003年10月 7日 火曜日

おじいちゃんの家

毎年お盆と正月は実家に帰省する、という人は多いと思います。
わたしも子どもの頃は両親に連れられて、母方のおじいちゃんとおばあちゃんの家に行きました。
そこはすごく田舎で、水はおじいちゃんが掘った井戸の水だったし、
お風呂も五右衛門風呂で薪を燃やして焚いていたし、
台所には備え付けのかまどがあって、そこで料理をしていました。
車が通れる道路も、遠くに小さいのが1本だけ。
汚い話ですが、ゴミが溜まれば庭で焼くし、
トイレの溜池がいっぱいになったら、おけで汲み取りしていました。
現在でもできるのかどうかわかりませんが、おじいちゃんがなくなった時には土葬でした。

そんな田舎だったので、商業施設は全くなくて、
唯一隣の村で、父方の実家が小さな商店を営んでいるだけでした。
とにかくすごく不便な土地だったので若い人はどんどん村を離れてしまって、
共働きだったわたしの両親も、比較的に都会といわれる土地に移り住んでいました。
けれどもそういう田舎は、子供からすると、村中が遊び場に見えます。
わたしと弟は、おじいちゃんとおばあちゃんの家に行くのをひどく楽しみにしていました。

春にはつくしやふきのとうをとったり、
夏には小川に入って魚を捕まえたり、蝉やカブトムシを捕まえたり、
秋には柿や栗などをとったり、
冬はお餅をついたり、火鉢で手を温めたり。
畑仕事を手伝うという名目(もちろん手伝いましたが)で、
いちじくや、ミョウガや、しいたけや、トマトや、あけびなどをとったり、
芋掘りをしたり、焚き火をしたり…
本当に楽しいことばかりありました。

おじいちゃんは、基本的に無口ですごく厳しい人だった記憶があります。
後で知ったことですが、小学校で美術と音楽を教えていたそうです。
ひいおじいちゃんが鍛冶屋さんだったことも関係して、おじいちゃんはとても器用な人でした。
たった1人で、孫のわたし達の為に子ども部屋を作ってくれたし、
2階建ての蔵も作ってしまいました。
農作業具も、料理道具も、家具も、おじいちゃんの手作りだったし、
家の柱には彫刻を施し、壁には絵画が飾ってありました。
家自体が、おじいちゃんの芸術そのものだったのです。
わたしは、おじいちゃんは厳しくて怖かったけど、おじいちゃんの家は大スキでした。

そんなおじいちゃんが亡くなったのは、わたしが小学校1年生の時でした。
広い家に、しばらくおばあちゃんが1人で住んでいましたが、
やがてその家は空家にして、わたし達と一緒に暮らすようになりました。
最初の何年かは、簡単に出来る野菜を畑に植えておいて、
収穫の時だけ取りに帰る…ということを続けていました。
けれども、わたしや弟が中学校にあがってからはだんだん足が遠のいて、
ついにはまったく行く事がなくなってしまいました。
おばあちゃんが亡くなってから、
両親も一度は「老後はゆっくり田舎で暮らそう」と考えたらしいのですが、
あまりにも不便な土地だったので、断念したそうです。

わたしが、最後におじいちゃんの家に行ったのは、高校生の時でした。
すでに親元を離れていたわたしは、両親のもとに帰省するのがやっとで、
空家になってしまったおじいちゃんの家に行くのはお墓参りの時ぐらいでした。
その頃すでに、蔵は傷み始めていました。
子どもの時には「蔵の中で遊んではいけない」と言われていましたが、
わたしは高校生になっていました。
どきどきしながら、たった1人で蔵の中に忍び込んでみたのです。

1階は、農作業具や農作業機器など。
禁止だった2階は…カマとか槍とか針金とか、危険なものがたくさん。
動物の毛皮らしきものがぶら下がっていたりして、ちょっと気味が悪かった。
一番奥まったところに本棚があって、本のたぐいが残っていました。
おじいちゃんの本?ママが学生の頃の本?

そこには音楽の辞書や楽書、楽譜がありました。
そういえば、おじいちゃんは音楽の先生だったんだ!
それまで深く考えたこともなかったけど、
子どもの部屋には電気オルガンがあったし、ピストンのないトランペットもあった。
あれはおじいちゃんのだったんだ!と改めて理解したのでした。
ねずみにかじられた楽譜を開いてみたら、おじいちゃんの手書きの文字がありました。
おじいちゃんと一緒に暮らしたことはないけど、
姉もわたしも弟も、いつのまにか音楽好きになっていたことに気づいて驚きました。
おじいちゃんがもし生きていたら、音楽の話をしてみたかったなぁと思います。

最近「おじいちゃんの家を取り壊すことになったよ」とママから電話がありました。
井戸も潰れてしまって、畑には木が生えていて、家も雨漏りがしていて、
床下がシロアリの住みかになってしまったのも知っていました。
何年も放置していたので、とうてい人が再び住めそうにないことも知っていました。
そして、とうとう「家が崩れてきた」と近くに住む親戚の人から連絡があったのでした。
ママが電話の向こうで泣いていました。
ママは一人っ子だったので、自分を責めているようでした。
わたしもなんとも言えない気持ちになってしまいました。

大スキだったおじいちゃんの家がなくなる。
いつか結婚して子どもが出来たら、絶対に連れて行きたい場所でした。
わたしの中のなつかしい場所。
いつか、わたしの家族に伝えられる日が来るといいな。
そんな、なつかしく思える場所を、わたしも作れるといいな、と思います。

おじいちゃんの家、ごめんなさい。
おじいちゃんの家、お疲れさま。
おじいちゃんの家、ありがとう。
おじいちゃんの家、さようなら。

投稿者:はるしゃ | 21:33 | カテゴリー:思い出

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