2005年2月20日 日曜日
おじいちゃんの楽譜
この間の3連休に、パパとママが東京ディズニーランドに来るとかで上京してきました。なんでも以前わたしがプレゼントした旅行券を使ったみたい。その3日間は、東京見物やホテルの道案内とかしてめずらしく親孝行をしました。わたしは、高校のとき実家を出てから数えるくらいしか帰省してないので、じっくり話をしたことってあんまりないんです。とくに家族の話とかってほとんどしたことがなかったのでそれまで気になっていたことを聞いてみようと思っていました。
パパやママやキョウダイのことは大体わかるけど、わたしが聞きたかったのは、母方のおじいちゃんのことでした。おじいちゃんのことは、以前にもおじいちゃんの家に書いたことがあります。わたしが最後におじいちゃんの家に行ったとき、小さい頃立ち入り禁止だった倉の中から、おじいちゃんの物だった音楽の辞書や楽書や楽譜を見つけて、改めておじいちゃんが音楽の先生をしていたんだって聞いた話を思い出したんです。おじいちゃんはわたしが小学1年の時に亡くなってしまったんですが、今から考えると、せっかくわたしも音楽をしているので、生きているうちにいっぱい話がしたかったなぁと常々感じていたんです。
パパとママが上京してくるちょっと前に、音粒のじおと、おじいちゃんの話をしたことがあったんです。その時にじおに「おじいさんはどこの学校の出身なの?昔って音楽の先生になるのにどんな学校に行ったんだろう?」って聞かれたんです。そう言えばどこの学校なのかしら?教育学部とか音大とかに相当する学校ってどこになるんだろう?今まで自分のおじいちゃんがどこの学校の出身なのか考えたこともなかったんです。
「おじいちゃんって、どこの学校に行って音楽の先生になったの?大学とかあったの?」
いきなりわたしが聞いたのでママはびっくりしたみたい。
「おんなじ音楽やってたのに話聞いたことなかったし、おじいちゃんの楽譜とか見たことあるし、やっぱり知りたいもん。」
そう言うと、ママは嬉しそうに話してくれたのでした。
ママ「おじいちゃんはね、師範学校を出たの」
私「師範学校って教育学部みたいなもの?」
ママ「詳しくはわからないけど、まぁそうだと思う」
私「それで、学校の先生になったの?」
ママ「しばらくは、歌劇団で仕事してたみたい。音楽の仕事とか美術(小道具やセットなど)作ったりしてたんだって」
私「そう言えば、美術の先生もしてたんだっけ」
ママ「そうそう。最終的には実家にもどって学校の先生をしたの」
私「おじいちゃんの家の倉で楽譜とか見たことあるよ。あれどうしたの?もしかして処分した?」
ママ「するわけないでしょ…そうだ、お前、おじいちゃんの楽譜もらってくれる?」
私「え、いいの!?めちゃ嬉しいんだけど!!!」
ママ「だってママ、音楽のことはわからないしね。おじいちゃんの絵とか美術関係は、まぁママが絵を書くからママがもらっとくね」
こうして思いがけないことに、おじいちゃんの音楽の書籍とかを形見としてもらえることになったんです!高校生のとき、おじいちゃんの楽譜を初めて見た時にもすごい衝撃を受けたけど、大人になってから見てみると、そのときにわからなかった事がわかったりして違った意味で衝撃を受けるんじゃないかって、めちゃめちゃ期待してしまうわけなんですが♪どうやらおじいちゃんの手書きの楽譜なんかもあるみたいで、すっごいドキドキしてしまうんですが、この気持ちはいったいなんなのでしょう(笑)
2005年2月 1日 火曜日
キョウダイアイ?
さっきママから電話があって思い出したんですが、明日は姉の誕生日です。弟とは年が一つしか違わないので仲良しだけど、姉とは離れているので、一緒に遊んだことがほとんどありません。
姉とわたしは、全く性格が違うし、背丈もキャラも違います。ついでに好きなことと嫌いなことが全く反対で、顔も全然似ていません。おまけに音楽の好みも全く合いません。でもね、なぜか声だけは似てるんです。田舎のなまりが残った話し方もそっくり同じ(笑)声の高さが微妙に違うかもしれないけど、一緒に歌をうたうとやっぱり相性がいいんです。
弟の結婚式でわたしが曲を作って演奏した時のことです。「お前はいっつも、弟!おとうと!弟!だなぁ」と言われました。「お姉ちゃんの時にも、お姉ちゃんの好きな曲ピアノ弾いたし、別に歌までうたったじゃん」と答えたら、「お姉ちゃんには曲つくってくれないの?」と言われました。それで思い出したんですが、そう言えば作ってました!
わたし「作ったじゃん、お姉ちゃんの曲」
姉 「そうだっけ?」
わたし「ひどいよ!作れーって脅したじゃん!!!」
姉 「覚えてない」
わたし「お姉ちゃんが結婚するときに演奏する曲作れって、お姉ちゃんが高校生の時」
姉 「そう言えば…」
わたし「曲のタイトルも”鐘が鳴る”っていう名前で教会で結婚式できるようにさぁ」
姉 「ああ、思い出した(笑)ピアノだけの曲だっけ?」
わたし「そうそう。忘れるなーーー!」
姉 「完全に思い出したけど、どうして結婚式で演奏してくれなかったの?」
わたし「えーと、だからお姉ちゃんが違う曲指定したからじゃん」
姉 「そっか、忘れてた」
わたし「わたしも忘れてた。曲の存在も忘れてた」
そんなわけで、とっても仲のよいキョウダイ?なのでした。
それにしても、変なとこばっかり似るのはなんでかな(笑)
2004年12月25日 土曜日
クリスマス@2004.12.25
昨日のイブの日は、短期で働いていた派遣の仕事の最終日でした。一緒に終了した友達と食事するつもりだっだけど、主婦の友達だったので、結局食事には行きませんでした。それでパン屋さんで買ってきたのがこのクリスマスツリー!カスタードクリームが入ったパンです。
本当はこの写真は昨日のうちにアップしたかったけど、ムーバブルタイプになってからよくわからなくて断念。グレてベッドに入ったらぐっすりと寝込んでました。朝起きてもまだ眠くて、適当に食べてまたお昼寝…結局合計15時間は寝てました。こうしてわたしのイブとクリスマスは過ぎてしまいました。
ところで、サンタクロースの正体って、ふつう何歳くらいで知るんでしょう?
わたしの場合は小学1年生のころ、年の離れた姉に「親に決まってる」と言われて、ショックだった覚えがあります。その時は、1つ下の弟と二人で「ウソだー!!!」と言い返して、姉と大げんかしちゃいました。けどなんとなく心の中で「本当はパパなのかしら?」と考えずにはいられませんでした。
小学4年のイブの日、弟とわたしはサンタクロースの正体をつきとめるため、一晩中起きていることにしました。黙っていると眠くなるのでコソコソ内緒話をしながら、まだかまだか?と待っていたんです。けどやっぱり眠くていつのまにか…
すると突然目が覚めました。なぜかわかりません(笑)しばらく一人で起きていて、なんとなく予感がしたので弟を起こしました。そうしたら台所からものすごく大きなガサゴソ!という音が聞こえました。それもカナリ長い時間でした。弟とわたしは、おかしくておかしくてクスクス笑っていました。
やがて忍びよってくるような足音がしました!弟とわたしは笑いを抑えるのに必死でした。足音は二人のまくらもとにやってきて、ガサゴソとプレゼントを置いて引き返していきました。その去って行く背中を見るとママだったのです。
本当に親だったらショックかしらと思っていたけど、なぜかショックは受けませんでした。それよりも、弟とわたしが起きていたことを勘づいたらしいママの気持ちを考えるとなんだかかわいそうで、ちょっと後悔しました。なので弟と相談して、バレバレだったとしてもこのことは内緒にしておくことにしました。
サンタクロースの正体を知ってしまったからには、翌年からのプレゼントはなくなるかもしれないという弟とわたしの心配を裏切って、中学3年までプレゼントは続きました。今から思うと、わたしは、クリスマスに欲しいものを誰にも言わない子だったので、親も大変だったと思います。思い返すと、いろんな小物がいっぱい入ってたなぁ(笑)
そう言えば、ここ何年もクリスマスプレゼントに縁がないのですが、今だったら欲しいものがはっきり言えます!壊れたウインドウズパソコンのかわりが欲しい!よし、来年のクリスマスに期待するじょ〜♪
2004年6月 4日 金曜日
迷惑な隣人!?
最近、一人暮らしを始めた友達から、
「夜中に隣の部屋から話す声がしてうるさい」という話を聞いて、
過去に出会ったご近所さんのことを思い出しました。
その時その時は大変だったけど今では笑い話になってしまったので、
書いてみようかと思います(笑)
・木造アパート(上に住む人)
ベットか何かから飛び降りるドーンという音や、
潔癖症だったのか1日に何回も掃除機の音がしてました。
ブィ〜ン!という音と掃除機がフローリングの上をゴロゴロ転がる音が。
夜になると、寝ようとしている時に、
天井から「ポキ……… ポキ………」という音がずっと聞こえてくるんです。。。
フローリングに直接足を押し付けて指の骨を鳴らしているような感じでした。
静かな中に誰かの骨が鳴る音が響いてるのはちょっとしたホラーでした…
・マンション(上に住む人)
ジャズピアノをやっていて、演奏中にストンピング(足踏み)をするのですが、
あまりにうるさすぎて、下の部屋の人からわたしの部屋に苦情が来てしまったんです!
上の部屋の人にはもちろんお願いしたんですけど、
反対に「気をつけてるよ!」と怒られちゃいました(泣)
あと、マンションの前に大型バイクをとめていて、
夜中にエンジンを長時間かけっぱなしにしたり。
エンジンを充分あたためてから走りたいのはわかるんだけど。
さらに真夜中になると、
立て付けの悪い鉄製のドアをドーン!という大きい音をたてて開けて、
階段をカンカンカンカン…と降りてくる音が。
その後外から、
「…ちゃ〜〜〜ん …ちゃ〜〜〜ん」という声が!!!
よく聞いてみると「たまちゃん」と名づけたノラネコを呼んで餌をあげてたみたいです(笑)
ネコはわたしも大スキなんですけど、その声が!!!
すっごい独特なイントネーションで、「たま」っていうのが聞こえなくて、
「…っちゃ〜〜〜ん」ってどこからともなく聞こえてくるんです。。。
ネコも怖くて逃げだしそうな声でした(笑)
・アパート(上に住む家族)
迷惑というかハプニングですが。
子供の三輪車に音楽が鳴るブザーがあって、壊れていたらしく一晩中鳴っていたことがありました。
上の部屋の玄関の前に置いてあった三輪車です。
夜になっても子どもが走り回る音が聞こえてくるので、
起きているはずなのに気づかないなぁ。本当にそこの家族の三輪車なの?
と、わざわざ服を着替えて確認しに行ったら、
やっぱりそこの三輪車でした。
ちなみに曲名は「通りゃんせ」でした♪こわー
…なんて人のことばっかり書いてしまったけど、
この前CDを作る時に家で遅い時間まで歌っていたりして、
自分もかなり迷惑な隣人になっているような気がします。
最近は自宅じゃなくて、
会社帰りにカラオケに行って練習したりしてるんですけど。
防音室が欲しいなぁ。
2004年5月28日 金曜日
音楽をスキになった理由
みんな何が理由で音楽をスキになったり習ったりするんでしょう?
よく人に聞かれたりするので、わたしの場合を書いてみます。
子どもの頃…1歳〜2歳でまだおしゃべりを覚えたばかりの頃ですが、
わたし、しゃべるのが苦手だったんです。
しゃべり出しや途中の音が詰まったりして、スムーズに話すことができない、
”吃音”と言われる状態だったんです。
生まれて8ヶ月で病気をして1年くらい入院して退院してみたら弟が生まれていたり、
左利きから右利きに修正したりしたことが、
今から思うと原因の一つになっていたのかもしれません。
何かしゃべろうとして詰まったりしていたらしいのですが、
やはり親は心配したそうです。
そんなわたしにママは、歌を歌わせるようにしたんです。
子ども向けの音楽を聞かせたり歌わせたり、会話も全部、歌でした。
もちろんめちゃめちゃに歌うんですけど(笑)
ママは当時保母さんだったので、
たまたまそういう方法を思いついたのだと思います。
けど、わたしにはそれなりに効果があったらしく、
スムーズにおしゃべりできるようになったみたいなのです!
気がついたときには音楽が大スキになっていて、
近所に住む友達の影響もあってピアノを始めていました♪
その話を聞いた隣に住んでいた高校の先生が、
ママの事を論文に書いたそうなんですが、どんな内容だったのかなぁ(笑)
とても興味があるんですけど!!!
わたしはその頃のことは、
病院に入院していたことや、歌を歌っていたことは覚えてるんですけど、
おしゃべりするのが苦手だったことは全く覚えてないんです。。。
今でも極度に緊張すると、上手くしゃべれなかったりするんですけど、
これはたぶん別の理由でしょう(笑)
2003年12月11日 木曜日
早起きのコツ
小学校低学年の頃朝起きる時は、毎朝ママの口笛を合図に起きていました。
時間になると台所で料理をしているママが「ピーピー」と口笛を吹くのです。
わたしも弟も、大抵時間より早く目覚めているので、口笛が聞こえると観念して起きていました。
小学3年生の時に目覚し時計を買ってもらってからは、アラームが鳴り出す直前の「カチッ!」という音で、瞬間的に目覚ましを止めて起きていました。
わたしは現在、仕事が朝7時からなので、かなり早起きをしています。
この話をすると必ず「高血圧なのね。朝起きられるのはうらやましい」と言われます。
そして「早起きのコツを教えて」と聞かれたりします。
早起きのコツなのかどうかわからないけど、わたしの経験と、わたし流の早起きの方法を書いてみます。
わたしは実は低血圧だったりします。
なぜ起きられるかというと「寝坊&遅刻するんじゃないかと心配で時計ばかり気になって安眠できないから」です。
心配で心配で、一度目覚めると二度寝はできません。極度の心配性なのです。
時計を手に持って、鳴るのをひたすら待って時間を過ごすことになります。
便利なように思えるかもしれませんが、はっきり言って大損です(笑)
高校に進学する際、実家からは通えない距離だったので、下宿をしていました。
その時にも、朝起きれるかどうかが心配で、目覚し時計をもう1個、買ってもらいました。
にわとりの絵がかいてあって、ものすごい声で「コケコッコー!」を連発するやつです。
そんな時計が鳴り響いたら、他の人に大迷惑をかけてしまうことになります。
わたしの緊張感を利用して起きる方法です。
にわとり時計はその威力を発揮し、
わたしは毎朝「コケコッコー!」と鳴く前に起きることができました。
小学生の時の目覚し時計は保険の役割を果たしていました。
大学は寮に住むことになりました。
高校の時に住んでいた下宿の荷物は、いちど実家に移動して、
そこから寮に持っていく荷物を選別しなおして、寮まで宅急便で荷物を送ることにしました。
寮は厳しくて「荷物は最低限のものだけ」と指示されていました。
実家の近くの酒屋さんに宅急便をお願いした日の夜中、酒屋さんから電話がかかってきました。
「箱の中に、にわとりが入ってるんですけど」
が〜ん!!!!!!にわとり時計だ(汗;
全速力で酒屋さんに走っていったら、ダンボールの箱の中でにわとり時計が「コケコッコー」と鳴いていました。
ものすごい声で、鳴きまくっていました。
当然酒屋さんは怒っていて、ママと2人で平謝り…おお、今思い出しても恥ずかしい!!!
けど、事件はもう一度おこってしまいました。
寮生活にも慣れた頃のことです。
学校から寮に帰ってみたら、人がわたしの顔を見て、笑ってすれ違っていくのです。
すると寮の先輩が「お部屋でにわとり飼ってるの?」と言いました。
が〜〜〜〜〜ん!!!!!またやってしまった(汗;
にわとり時計の事件はこれで終わりましたが、
わたしの羞恥心は心に刻み込まれ、にわとり時計の効果はさらに確実なものになっていました。
なにがなんでも絶対に起きてやるぞ!!!と。
その後わたしは退寮し、弟と2人で例の火事にあったマンションに住むことになりました。
弟が乱暴に扱うので、お気に入りのにわとり時計は壊れてしまいました。
そのころ弟はフリーターで、朝4時に家を出ていくような仕事をしていました。
弟は「にわとり時計がなくなって不便だ」と言って、象の時計を買ってきました。
鳴き声は……もちろん「パォーンパォーン!!!」とものすごい声でした。
弟もわたしと同じく、寝坊が心配で安眠できない人だったので、どうやらにわとり時計と同じ効果のあるものを選んだみたいです(笑)
現在のわたしの目覚し時計は、携帯電話です。
以前使っていて解約した電話機を、目覚し時計として使っています。
けど音は鳴りません。
マナーモードにしているからです。
マナーモードになっていると寝坊する確立が高くなります。
だから余計に心配で、わたしは携帯が震える前から起きています。
そして手に握り締めながら、携帯が震えるのを待っているのです。
マナーモードになっている携帯は、にわとり時計よりも、象の時計よりも、効果絶大です。
もし、朝起きるのが苦手で悩んでいる!という人がいたら、一度マナーモードの携帯を試してみてはいかがでしょう?
寝坊が心配で、遅刻が心配で、時間が気になって、緊張して、安眠できなくて、
もしかしたら朝スムーズに起きられるようになるかもしれません。
2003年11月27日 木曜日
フリーマーケット
子どもの頃、姉と弟とわたしの3人でおこづかい稼ぎをしようとして、
お互いにいらなくなったものを売る…つまりフリーマーケットのようなことを、やってみたことがあります。
けれども、お互いに全く買い物をすることもなく終了してしまいました。
姉の出してきたものは、妹のわたしからしてみると全部ほしいものばかりだけど、おこづかいがないので買えません。
わたしの出したものは、姉のお古ばかりで、姉にとっては興味のないものばかり。
弟の出してきたものは、男の子には魅力的かもしれないけど、姉もわたしも興味がないし。
姉やわたしが出したものは、弟には不必要なものばかり。
そういう理由で、全く買い物をすることがありませんでした。
これじゃあ、しょうがない(笑)
けどこの体験が、わたしにとってのフリーマーケット初体験だったように思います。
小学5年生のころ、小学校の体育館で行われたバザーに行きました。
弟は百科事典がそろっているのを買ったけど、わたしは何も買いませんでした。
かわりに、どこかのクリーニング屋さんが提供したらしい、
無料で持ち帰りオーケーなハンガーを大量に持ち帰った思い出があります(笑)
大学の学園祭の時、サークルで屋台を出したことがあります。
大学芋を作ってパック詰めして、売り歩くのです。
わたしは料理ができないので、売り子として働きました。
学園祭のイベントでコスプレをやったままの格好で売っていました(汗;
大学芋はお酒のおつまみにならないので、売上は一番悪かったです(笑)
社会人になってから、ほんの短い間だったけどイベント会社で働いたことがあります。
そこの会社で、フリーマーケットに業者として出店したことがあります。
子ども向けのキャラクターグッズを販売するのにどうやったら売上が伸びるか考えて、
まるでキャラクターグッズのようにコスプレをして販売しました(爆)
商品もかわいらしく並べて、BGMなんかも流してみたりして…
頭につけるカチューシャなんかはわたしもつけてみたり…
そのかいあって?かどうかわからないけど…売上がよかったので、すごく嬉しかったです♪
しばらくしてから、すごく大きいフリーマーケットに行ってみたくなって、
代々木公園や西武ドームで行われたフリーマッケットに行ったりしました。
ある真夏の暑いときに豊島園のフリーマーケットに行きました。
何か掘り出し物はないかと探し歩いて、布団乾燥機を200円でゲット!
うれしくて使いすぎて2ヶ月で壊れちゃったけど、なんか楽しかった!
最近ネットオークションをやっている友達が増えてきました。
手軽に売り買いができるみたいですね。
そうなってくると、フリーマーケットという市場も廃れてくるのかなぁ。
わたしもネットオークションには興味があるけど、
もしフリーマーケットがなくなっちゃったりしたら……すごく寂しいなと思います。
今度、フリーマーケットに行きたいなぁ。
寒い季節がすぎて暖かくなってきたら、
買い物する気まんまんでお出かけしてみようかなと思います♪
2003年11月20日 木曜日
草取りおばあちゃん
子どもの頃住んでいた集合住宅の近所に、
いつも草取りをしているおばあちゃんが住んでいました。
その集合住宅の敷地内には広い公園があったので、子どもの遊び場になっていました。
わたしも、その公園でよく遊んでいました。
そのおばあちゃんは公園のすみっこでよく草取りをしていたので、
"草取りおばあちゃん"と呼ばれて親しまれていました。
わたしは、草取りおばあちゃんの家に時々あずけられる事がありました。
保育園から帰ったあとの数時間、おばあちゃんの家の中で遊んでいるのです。
おばあちゃんと、あやとりをしたり、折り紙をしたり、歌をうたったり、
時にはおばあちゃんの肩たたきをしたこともありました。
ある日のこと、おばあちゃんが「草取りをしに行こう」と言いました。
草取りはおじいちゃんの家に行った時にいつも手伝っていたので、
わたしは張り切って草取りをしました。
この時おばあちゃんに「なんでいっつも草取りばっかりしてるの?」と聞いてみたら、
おばあちゃんは笑いながら「趣味じゃ」と答えたのでした。
わたしが熱心に手伝ったので「今度ご褒美をあげよう」と言いました。
数日後、本当にご褒美をもらったわたしは、また草取りをしよう!と思ったのでした。
それから何日かして、わたしは弟や友達を誘って草取りをしました。
お菓子やお人形がもらえるよ!とそそのかしたのです。
つまり、ご褒美が目当てでした。
公園にはあまり草が生えていなかったので、
雑草がたくさんある山の方にまで、草を取りに行きました。
山盛りになった草は全て、草取りおばあちゃんの家の玄関の前にまとめて置きました。
その晩のことです。
「草取りおばあちゃんの家の玄関のところに草が山盛りに置いてあったんだって」
と、ママが言いました。
「まさか、おまえじゃないだろうね?」と…
そのママの顔色を見て、あれ?やばい!!!と思ったのですが、
弟が「僕らと、○○ちゃん達と一緒に草取りしたの。お菓子がもらえるんだって」
と、無邪気に答えてしまいました。
もちろんわたしは、ママにひどく叱られてしまいました(汗)
草取りおばあちゃんには「ご褒美が目当てでした」とあやまりに行ったのですが、
気分はずっと晴れませんでした。
なのに数日後、わたしはまたご褒美をもらってしまいました。
弟も、近所の友達も、みんなみんな草取りおばあちゃんからご褒美をもらっていました。
おばあちゃんは「みんないい子だから」と言ったけど、わたしは複雑な気持でした。
ご褒美をもらうために草取りをしてみせたことに対して罪悪感を感じていたのです。
それからというもの、草取りおばあちゃんが草取りをしているのを見かけるたびに、
わたしは一緒に草取りをせずにはいられなくなりました。
「おばあちゃんと草取りがしたいから」と何回も言いました。
わたしが罪悪感を感じていたのを、おばあちゃんは知っていたと思います。
わたしが歳をとったら……毎日草取りをするとは思えないけど、
子どもとコミュニケーションのできるおばあちゃんになりたいなぁと、
子どもながらに考えた記憶があります。
草取りおばあちゃんのことは、たぶんこれからも忘れないと思います。
2003年10月23日 木曜日
火事
以前、都内のマンションに弟と2人で暮らしていたことがあります。
弟とわたしは年子なので、幼い頃から仲がよく、特に苦痛もありませんでした。
8畳の部屋に布団を並べて、一緒に寝起きしていました。
わたしの友達が遊びにきたときには弟がごちそうを作ってもてなしてくれたり、
弟のトランプマジックにだまされたり、弟のキックボクシングの練習の的にされたり、
弟のギターとわたしのピアノを伴奏に一緒に歌を歌ったり、
それなりに楽しく生活していました。
なのに、その楽しい生活をおびやかすような事件が起こってしまったのです。
マンションは環七沿いの、かなりうるさい場所にあったので、
パトカーや救急車が頻繁に通ります。
それでもビンボウな姉弟は騒音にも負けず、真夏の夜は窓を開けて寝ていました。
ある夜のこと、消防車が何台も通っていて、音が鳴り止まないことがありました。
しかも音がすぐ近くに聞こえ、消防車が集まってきているような気配がしました。
弟も目がさめたらしく、わたしの方を見て、しかめっつらをしています。
わたし「うるさいなぁ」
弟「うるさいなぁ」
しばらく布団にもぐって音に耐えていましたが、かすかに焦げ臭い匂いがします!
「近い!?」
わたしは台所の窓へ、弟はベランダへ走りました。
下を除くと、たくさんの消防車が集まってきています。
おまけに、わたし達の住むマンションを取り囲んで、大量の水を放出しているのです。
さらによく見ると、駐車場になっている1階から火と煙が!!!
「このマンションだ!!!」
弟とわたしは、ほぼ同時に叫びました。
パニックを起こしているわたしに向かって弟が「貴重品だけ持って逃げるぞ!」と怒りました。
あわてて、財布と通帳だけ手に持って、部屋の外に飛び出しました。
「階段で降りるぞ!」弟がまたもや誘導します。
わたしは廊下にあった非常ベルを押しましたが、音が鳴りません。
他の部屋の人のことが気にはなりましたが、そのまま階段を駆け下りたのです。
外に出ると、たくさんの消防車と、たくさんの野次馬と、パトカーがいました。
わたしと弟がパジャマでマンションから出てきたので、注目の的です。
火はすでに消えていて、あたり一面水浸しでした。
駐車場の壁や天井に黒く焦げたあとが残っていて、そこからも水がヒタヒタしていました。
「ここの住人の方ですか?」
消防車の人が話しかけてきました。
「ここの住所とか、色々確認させていただきたいのですが」と言いながら、
小さい黒板をわたしに見せました。
見ると、チョークで、住所とマンションの高さが書いてあります。
わたしは「住所はあってますがマンションは6階じゃなくて7階建てです」と答えました。
消防車の人はそれだけ確認しただけでした。本当に。
警察の人にも何も聞かれませんでした。本当に。
騒ぎは収まり、わたしと弟が部屋に戻ってからやっと非常ベルが鳴り始めて、
誰かの悲鳴が聞こえました。
次の日、下の階に住む雇われ管理人さんが、尋ねてきました。
管理人「実は昨夜、このマンションの駐車場で火事がありまして」
わたし「知ってます。パジャマで逃げ出してしまいました」
管理人「あ、そうだったんですか」
わたし「消防車の人に色々質問されたので答えておきましたけど」
管理人「あ、そうだったんですか」
わたし「逃げ出す時に非常ベル押したんですけど鳴らなかったんです」
管理人「あ、そうだったんですか」
わたし「騒ぎが収まって、部屋に戻ってから鳴ってましたけど」
管理人「あ、そうだったんですか」
自分の管理が行き届いてないことを悟ってしまった管理人さんは、
うなだれて引き上げていったのでした。
さらに数日後、火事の原因が放火だったことが判明しました。
駐車場にあった大型バイクに、火をつけられたようなのです。
なんだか恐ろしくなったわたしは、それを機に引っ越しを決意したのです。
こうして、弟とわたしの楽しい生活は終わったのでした。
2003年10月13日 月曜日
パチンコ
二十歳になってから、初めて里帰りした時のことですが、
パパに「パンチコに連れて行って」とねだったことがあります。
「お前のような子どもが行くところじゃない」と叱られたのですが、
「パパのパチンコをする姿を見せてやるいい機会だから、連れて行ってやりなさい」
と、ママがパチンコ好きのパパに嫌味を言いました。
「いいか、パパのことは、オッサンと呼びなさい。パパ!パパ!呼ぶな」ときつく言われて、
パチンコに連れて行ってもらえることになったのでした。
パチンコに向かう車の中でも、約束事はつづきました。
パパ「パパのことはオッサンと呼びなさい」
パパ「誰かから、娘さん?とか聞かれても、知らないと言い張るんだぞ」
パパ「パパは一緒には座らないからな」
どうやら、顔なじみの人に、娘を連れてきたとばれるのが恥ずかしいらしいのです(笑)
あ、そうそう。こんな事も言ってました。
パパ「最初の3千円分はパパが出してやるけど、あとは自分のおこづかいでやりなさい。負けても知らんからな」
わたしは「はいはい、はいはい」と聞き流していました。
パチンコ屋さんに入ると、大音量の音楽と、アナウンスと、タバコの匂いと、機械の匂いだらけでした。
あっけにとられている間にパパがコインを用意してくれました。
パパが指定してくれた台は、パチンコではなくてスロットルというものでした。
パパは「ここにコインを入れて、このボタンを押すだけだから。パパはトイレに言ってくる」
と言い残して、行ってしまいました。
ボタンを押すだけって言っても、ルールも何もわからないし、困り果てたわたし。
周りの人がやっているのを見よう見まねで、ボタンを押しつづけました。
押すと、画面がクルクルまわって、絵の模様が変化していきます。
なんとなく、絵の模様をそろえたらいいのかな…と思っていたら、
とつぜんわたしの台から、大音量で音楽が鳴りはじめ、コインがたくさん出てきました。
まわりの人の台は静かななのに、わたしのだけうるさい!
ただでさえ、女の子だってことだけでも目立っていたのに、なんか視線が怖かった。
「どうしよう!」とパニックになりながらボタンを押しつづけるしかありませんでした。
そうして音楽は鳴りつづけ、コインも出つづけ、コインがいっぱいになってきました。
このままでは溢れてしまう!と思い、まわりをキョロキョロ…
たぶんコインを入れるために使うらしい箱が遠くのほうに見えたので、
席をたって取りに行って戻ってコインを箱に入れて、その間も音楽は止まらなくて…
しかたがないので、ボタンを押しつづけ…
パパが戻ってきたのは15分くらいしてからでした。
パパ「ジャンジャラうるさいのは、お前のところだったのか?」
わたし「パパ!遅いー!音楽がうるさいし、箱とりに行ったり、大変だったんだから!」
パパ「パパ、パパ、言うな!」
わたし「パーパー!!!(大声で)」
わたしたち2人は、みんなの注目の的でした。
パパ「よ、よし、パパが悪かった。もう出よう」
パチンコから出て、パパが怪しげなところに入っていって、
「儲かった」と言いながら出てきました。
「最初の3千円分は返してもらうからな」と言って、1万7千円をくれました。
帰りの車の中でパパに、
「初めてのパチンコで勝ったら、パチンコにはまってしまうから、もうするな」と注意されました。
「だからパパもパチンコにはまっちゃったの?」と聞いてみましたがごまかされました。
それ以来…かどうかわかりませんが、どうやらパパはパチンコをやめたようです。
わたしも約束どおり、パチンコはやっていません。
こうして何もかもがママの思惑通りにことが進んだのでした。
めでたし、めでたし。
2003年10月 9日 木曜日
視力検査
「先生、わたしの目ってすごく細いんですけど、コンタクト入りますか?」
コンタクトを初めて作るときの目の検査で、目医者さんにこんなことを質問しました。
目が細いと、コンタクトは入らないんじゃないか?と不安に思っていたからです。
先生はやさしく笑いながら「う〜〜〜ん、なんとかしましょう」と答えました。
それを聞いてますます不安になったわたしは、
コンタクトを使っている友達に相談しまくったのでした。
そして「初対面の先生にまでも、からかわれたらしい」という結論を得たのです…
そんな事も心配するくらい、わたしの目は細いのです。
子どもの頃は、目を見開いたまま、人の顔ばかり見ていて、ママを怖がらせたそうです。
それなのに、今はどうしてこんなに細い目なんでしょう。
「あれ!?目、あけてたの?見えてるの?」と人に驚かれることが何度もあります。
自分でも、目にゴミが入ったら、なんとなく嬉しいと感じてしまうほどです。
目を見開いていた頃は、それに比例して視力も2.0ありました。
(現在は、目が細いのに比例して、視力は0.08しかありません…)
小学校に入学する時に身体検査があり、その時にはママも同伴していました。
その中に視力検査も含まれていました。
視力検査って、普通は○の途切れている場所を「右・左・上・下」と答えるけど、
子供がわかりやすいように?なぜか色々な動物の絵が書いてありました。
象とかキリンが、真っ黒に塗りつぶされていて、ちょうど影絵みたいな感じで。
「これはなぁに?」と質問されるので、
「魚」とか「うさぎ」という感じで答えればよいのです。
わたしは大はりきりでした。
そういう遊びが大スキなのに加えて、上から下まで全部見えたのですから!
わたしは自信満々で「たか!」と答えました。
ママと先生が「はぁ?」と言いました。
わたしは聞こえなかったのかと思って、
「たーーーか!!!(後ろ上がりなイントネーションで)」と叫びました。
ママがあわてて「先生が指さしているのは、なぁに?」と言いました。
「だから、たかだってば。あの鳥、たかじゃないの?とんび?」
「ああ、鷹ね。あたりだよ」と先生が笑いながら言ってくれました。
「鳥って答えればいいの、わかった?」
保母さんだったママが真っ赤になって教えてくれました。
わたし「じゃあ、あのチンパンジーみたいなのは猿で、トイレのマークが人間?」
ママ「そ、そうよ………」
先生も看護婦さんも笑っていて、
ママが泣きそうな顔で「すみません」とあやまりました。
先生は「右目の視力は2.0ですね」と言いました。
人間(トイレのマーク)が一番下にあったからです。
その後の左目の検査は何事もなく終わりましたが、わたしの元気さは全くありませんでした。
どうやら、目を見開いていても、視力が2.0あっても、
わたしのボケは生まれつきのものだったようです。。。
あと、実験してみたのですが、
現在は目を見開いてみても、視力は回復しませんでした。
これで、目の大きさと視力が比例していないという事が立証されたことになります。
ということで、めがねもせず(イベントの時だけします)、コンタクトもせず(結局してない)、ボケたまま、
あぶない生活をしているのでした。
2003年10月 7日 火曜日
おじいちゃんの家
毎年お盆と正月は実家に帰省する、という人は多いと思います。
わたしも子どもの頃は両親に連れられて、母方のおじいちゃんとおばあちゃんの家に行きました。
そこはすごく田舎で、水はおじいちゃんが掘った井戸の水だったし、
お風呂も五右衛門風呂で薪を燃やして焚いていたし、
台所には備え付けのかまどがあって、そこで料理をしていました。
車が通れる道路も、遠くに小さいのが1本だけ。
汚い話ですが、ゴミが溜まれば庭で焼くし、
トイレの溜池がいっぱいになったら、おけで汲み取りしていました。
現在でもできるのかどうかわかりませんが、おじいちゃんがなくなった時には土葬でした。
そんな田舎だったので、商業施設は全くなくて、
唯一隣の村で、父方の実家が小さな商店を営んでいるだけでした。
とにかくすごく不便な土地だったので若い人はどんどん村を離れてしまって、
共働きだったわたしの両親も、比較的に都会といわれる土地に移り住んでいました。
けれどもそういう田舎は、子供からすると、村中が遊び場に見えます。
わたしと弟は、おじいちゃんとおばあちゃんの家に行くのをひどく楽しみにしていました。
春にはつくしやふきのとうをとったり、
夏には小川に入って魚を捕まえたり、蝉やカブトムシを捕まえたり、
秋には柿や栗などをとったり、
冬はお餅をついたり、火鉢で手を温めたり。
畑仕事を手伝うという名目(もちろん手伝いましたが)で、
いちじくや、ミョウガや、しいたけや、トマトや、あけびなどをとったり、
芋掘りをしたり、焚き火をしたり…
本当に楽しいことばかりありました。
おじいちゃんは、基本的に無口ですごく厳しい人だった記憶があります。
後で知ったことですが、小学校で美術と音楽を教えていたそうです。
ひいおじいちゃんが鍛冶屋さんだったことも関係して、おじいちゃんはとても器用な人でした。
たった1人で、孫のわたし達の為に子ども部屋を作ってくれたし、
2階建ての蔵も作ってしまいました。
農作業具も、料理道具も、家具も、おじいちゃんの手作りだったし、
家の柱には彫刻を施し、壁には絵画が飾ってありました。
家自体が、おじいちゃんの芸術そのものだったのです。
わたしは、おじいちゃんは厳しくて怖かったけど、おじいちゃんの家は大スキでした。
そんなおじいちゃんが亡くなったのは、わたしが小学校1年生の時でした。
広い家に、しばらくおばあちゃんが1人で住んでいましたが、
やがてその家は空家にして、わたし達と一緒に暮らすようになりました。
最初の何年かは、簡単に出来る野菜を畑に植えておいて、
収穫の時だけ取りに帰る…ということを続けていました。
けれども、わたしや弟が中学校にあがってからはだんだん足が遠のいて、
ついにはまったく行く事がなくなってしまいました。
おばあちゃんが亡くなってから、
両親も一度は「老後はゆっくり田舎で暮らそう」と考えたらしいのですが、
あまりにも不便な土地だったので、断念したそうです。
わたしが、最後におじいちゃんの家に行ったのは、高校生の時でした。
すでに親元を離れていたわたしは、両親のもとに帰省するのがやっとで、
空家になってしまったおじいちゃんの家に行くのはお墓参りの時ぐらいでした。
その頃すでに、蔵は傷み始めていました。
子どもの時には「蔵の中で遊んではいけない」と言われていましたが、
わたしは高校生になっていました。
どきどきしながら、たった1人で蔵の中に忍び込んでみたのです。
1階は、農作業具や農作業機器など。
禁止だった2階は…カマとか槍とか針金とか、危険なものがたくさん。
動物の毛皮らしきものがぶら下がっていたりして、ちょっと気味が悪かった。
一番奥まったところに本棚があって、本のたぐいが残っていました。
おじいちゃんの本?ママが学生の頃の本?
そこには音楽の辞書や楽書、楽譜がありました。
そういえば、おじいちゃんは音楽の先生だったんだ!
それまで深く考えたこともなかったけど、
子どもの部屋には電気オルガンがあったし、ピストンのないトランペットもあった。
あれはおじいちゃんのだったんだ!と改めて理解したのでした。
ねずみにかじられた楽譜を開いてみたら、おじいちゃんの手書きの文字がありました。
おじいちゃんと一緒に暮らしたことはないけど、
姉もわたしも弟も、いつのまにか音楽好きになっていたことに気づいて驚きました。
おじいちゃんがもし生きていたら、音楽の話をしてみたかったなぁと思います。
最近「おじいちゃんの家を取り壊すことになったよ」とママから電話がありました。
井戸も潰れてしまって、畑には木が生えていて、家も雨漏りがしていて、
床下がシロアリの住みかになってしまったのも知っていました。
何年も放置していたので、とうてい人が再び住めそうにないことも知っていました。
そして、とうとう「家が崩れてきた」と近くに住む親戚の人から連絡があったのでした。
ママが電話の向こうで泣いていました。
ママは一人っ子だったので、自分を責めているようでした。
わたしもなんとも言えない気持ちになってしまいました。
大スキだったおじいちゃんの家がなくなる。
いつか結婚して子どもが出来たら、絶対に連れて行きたい場所でした。
わたしの中のなつかしい場所。
いつか、わたしの家族に伝えられる日が来るといいな。
そんな、なつかしく思える場所を、わたしも作れるといいな、と思います。
おじいちゃんの家、ごめんなさい。
おじいちゃんの家、お疲れさま。
おじいちゃんの家、ありがとう。
おじいちゃんの家、さようなら。