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2003年10月30日 木曜日
いぬ
いぬ派か、ねこ派か、どちらなのか聞かれたら、
間違いなく、ねこ派と答えます。
幼い頃はいぬがスキだったけれど、
小学5年生の時に、近所で飼われていた白くて大きないぬに噛みつかれてから、
いぬが怖くなってしまいました。
そのいぬは、わたしよりも大きな姿をしていました。
季節は冬でセーターを着ていたけど、
噛まれた腕には今でも傷跡がかすかに残っています。
高校生の時、保健所の戸をこわした何十匹ものいぬが、
自転車で下校していた学校の先輩と友人を襲ってすごい騒ぎになったことがあります。
たくさん噛まれたらしい。
いぬも必死だったのだと思うけど、よけいにいぬが怖くなってしまいました。
決定的な事件が起こったのは、わたしが大学1年の時のことでした。
その頃は大学の寮に住んでいて、学校まで徒歩で通学していました。
住宅街や細い道や坂道がたくさんある道を20分も歩くのはちょっと大変でしたが、
大抵、同じ寮に住む友達と一緒だったので、苦には感じませんでした。
その日は運が悪く、わたしは1人でその道を歩いていました。
車が一台やっと通れる道を、遠くのほうから、白い押し車を押している人がやってきました。
今どき、押し車なんてめずらしいなぁと感じながら、のほほんと歩いていました。
その押し車はおんぼろで、ガタゴトすごい左右に揺れていました。
しかも、上下左右が、今にもバラバラになりそうな勢い!
車を押しているおじさんも、なんだか大変そうに見えます。
すれ違うのが大変だなと、前や後ろを見回したけど、押し車をよけられそうな場所がありません。
困ったなぁ、どうしよう…と、その押し車の大きさを確認するのに、もう一回よくみたら、
なんとそれは押し車ではなく、
道いっぱいに広がって歩いている、白くてでっかいいぬ4匹でした!!!
小学生の時に、わたしの腕に噛みついたいぬに似ていました。
散歩をして犬に引っ張られて歩くおじさん!
そりゃ、大変そうに見えるはずです。。。
目が悪いのに、めがねもコンタクトもしてなかったわたしへの仕打ちなのでしょうか!?
ピンチのピンチ!!!
逃げ道はまったくありませんでした。
引き返して走ろうにも、すごく長い直線距離。
だいたいその時はパニックになっていたので、逃げることも思いつきませんでした。
そして……
気付いた時には、いぬもおじさんもいなくなっていました。
わたしは……壁にへばりついたままの格好で、硬直していました。
時間が10分くらい経過していたので、
どうやら、壁にへばりついたまま、気絶してしまったみたいなのです(泣)
すごく怖くて、もう死ぬかと思いました。
それ以来本当に、
どんなに遠く離れていても、どんなに小さくても、いぬが怖くなってしまいました。
どのいぬも、わたしをねらって見ているような気がします。
どのいぬも、わたしにむかって吠えているような気がします。
人は気のせいだと言うけど、でも本当にいぬはダメ!
もう重傷なのです。
2003年10月28日 火曜日
お粥
わたしは普段派遣で、朝7時〜昼3時までの契約で働いています。
会社を休む時には、社員さんが朝早くから出社しなければなりません。
前もって休むことがわかっていればいいけど、
具合が悪くて急に休んだりすると、
わたしが社員さんの携帯に電話して、たたき起こさなければいけないのです。
かわりに出社してもらうために…
ところが、日ごろの不摂生がたたって風邪をこじらせてしまいました。
昨夜から微熱が続き、夜中はお腹が痛くて眠れなかったのです。
とうとう今日は、仕事を休んでしまいました。
当然、社員さんをたたき起こすことに(汗;
胃薬を飲んだ方がいいのかなと探してみたら大田胃酸を発見!
説明を読むと、「食後に」とかいてあります。
レトルトのお粥があったのを思い出したので、それを食べることにしました。
おいしそうなホタテ粥♪これでなんとかなる…
ところが、やってしまいました。
いくらボケていても、これはあまりに酷い!酷すぎる(泣)
見ただけではわかり難いかもしれませんが、
お粥に、大田胃酸をかけてしまいました(汗)
普段からカップ麺ばかり食べている罰なのでしょうか?
食べる直前に入れる調味料の感覚でサラサラっと。。。
これぞ本当の薬膳粥!
せっかくなので、写真をパシャパシャ!
どうせだったら、おとつぶろぐに載せてしまえ!
この間、何分間かが経過。
太田胃酸が、お粥に浸透していく事実にも気づかずに。
一口食べてみて「マズ!」
めちゃマズい!最低だ!
しかも大田胃酸はしっかり浸透していて、食べても食べても苦かった(泣)
食後に薬を飲み忘れる人にはお勧めかもしれませんが、わたしはダメです。
もう、イヤです。
これからは気をつけようと誓いました。
もう、あの味はこりごりです。
2003年10月23日 木曜日
火事
以前、都内のマンションに弟と2人で暮らしていたことがあります。
弟とわたしは年子なので、幼い頃から仲がよく、特に苦痛もありませんでした。
8畳の部屋に布団を並べて、一緒に寝起きしていました。
わたしの友達が遊びにきたときには弟がごちそうを作ってもてなしてくれたり、
弟のトランプマジックにだまされたり、弟のキックボクシングの練習の的にされたり、
弟のギターとわたしのピアノを伴奏に一緒に歌を歌ったり、
それなりに楽しく生活していました。
なのに、その楽しい生活をおびやかすような事件が起こってしまったのです。
マンションは環七沿いの、かなりうるさい場所にあったので、
パトカーや救急車が頻繁に通ります。
それでもビンボウな姉弟は騒音にも負けず、真夏の夜は窓を開けて寝ていました。
ある夜のこと、消防車が何台も通っていて、音が鳴り止まないことがありました。
しかも音がすぐ近くに聞こえ、消防車が集まってきているような気配がしました。
弟も目がさめたらしく、わたしの方を見て、しかめっつらをしています。
わたし「うるさいなぁ」
弟「うるさいなぁ」
しばらく布団にもぐって音に耐えていましたが、かすかに焦げ臭い匂いがします!
「近い!?」
わたしは台所の窓へ、弟はベランダへ走りました。
下を除くと、たくさんの消防車が集まってきています。
おまけに、わたし達の住むマンションを取り囲んで、大量の水を放出しているのです。
さらによく見ると、駐車場になっている1階から火と煙が!!!
「このマンションだ!!!」
弟とわたしは、ほぼ同時に叫びました。
パニックを起こしているわたしに向かって弟が「貴重品だけ持って逃げるぞ!」と怒りました。
あわてて、財布と通帳だけ手に持って、部屋の外に飛び出しました。
「階段で降りるぞ!」弟がまたもや誘導します。
わたしは廊下にあった非常ベルを押しましたが、音が鳴りません。
他の部屋の人のことが気にはなりましたが、そのまま階段を駆け下りたのです。
外に出ると、たくさんの消防車と、たくさんの野次馬と、パトカーがいました。
わたしと弟がパジャマでマンションから出てきたので、注目の的です。
火はすでに消えていて、あたり一面水浸しでした。
駐車場の壁や天井に黒く焦げたあとが残っていて、そこからも水がヒタヒタしていました。
「ここの住人の方ですか?」
消防車の人が話しかけてきました。
「ここの住所とか、色々確認させていただきたいのですが」と言いながら、
小さい黒板をわたしに見せました。
見ると、チョークで、住所とマンションの高さが書いてあります。
わたしは「住所はあってますがマンションは6階じゃなくて7階建てです」と答えました。
消防車の人はそれだけ確認しただけでした。本当に。
警察の人にも何も聞かれませんでした。本当に。
騒ぎは収まり、わたしと弟が部屋に戻ってからやっと非常ベルが鳴り始めて、
誰かの悲鳴が聞こえました。
次の日、下の階に住む雇われ管理人さんが、尋ねてきました。
管理人「実は昨夜、このマンションの駐車場で火事がありまして」
わたし「知ってます。パジャマで逃げ出してしまいました」
管理人「あ、そうだったんですか」
わたし「消防車の人に色々質問されたので答えておきましたけど」
管理人「あ、そうだったんですか」
わたし「逃げ出す時に非常ベル押したんですけど鳴らなかったんです」
管理人「あ、そうだったんですか」
わたし「騒ぎが収まって、部屋に戻ってから鳴ってましたけど」
管理人「あ、そうだったんですか」
自分の管理が行き届いてないことを悟ってしまった管理人さんは、
うなだれて引き上げていったのでした。
さらに数日後、火事の原因が放火だったことが判明しました。
駐車場にあった大型バイクに、火をつけられたようなのです。
なんだか恐ろしくなったわたしは、それを機に引っ越しを決意したのです。
こうして、弟とわたしの楽しい生活は終わったのでした。
2003年10月20日 月曜日
theKitchenGuysBand ライブレポート@10月19日(日)御茶ノ水ZIPPAL HALL
KGBライブについて。
全員引き締まった顔をして、なんかかっこよかったです!
ファルコさんの髪の毛が長くなっていて、さらに金色になってました。かっこいい!!!いつも以上に、ファンタジーがたくさん放出されていたような気がします。
ファルコさんのトークがなかったので、すごく残念でした。
いのえもんさん、ドラムのスティックが手に馴染まないのか、曲ごとにスティックを代えてました。でも、ライブの回数を増すごとに、だんだんトラムをたたく人になってきたんだなぁと実感させられます(笑。
隊長はギターの演奏が、すごく安定していました。今回はキーンっていう音も入らなかったし、ソロも安心して聞けました。
ステージがかなり広いのもよいし、箱もいい感じでした。
今回の曲目
1曲目:やさしさ
2曲目:KGBのテーマ
3曲目:ふきだまり
4曲目:あの日のままで
5曲目:からす
6曲目:ぶらいてすと・でいず(別アレンジ)
7曲目:かげろう
8曲目:KGBのテーマ/またやるバージョン
今回は最初から、やさしさ→KGBのテーマだったので、お客さんもすぐにノリノリでした。
ふきだまりは最初テンポがゆっくりで、後半から速く…そういうアレンジにしたのかな。落ち着いて聞こえたし。
あの日のままで、すごく上達していました。
ぶらいてすと・でいずのアレンジがいつもと違っていました。
かげろう、この曲大スキです。今回はかげろうが一番よかった。
演奏は良くなってきているので、曲がかわる時の間合いをもう少し考えられる余裕が出てくるといいなと思いました。
すごく楽しかったです!
(関連掲示板に書き込んだ内容を転載)
2003年10月16日 木曜日
迷路
会社での事。
破棄になったたくさんのダンボールをひとつにまとめて、
所定の場所に棄てに行くのもわたしの仕事です。
ダンボールの束は大きくて、運ぶ時には視界が半分になります。
「所定の場所のドア」を開けた!
と思ったのに、
間違えて、隣に並んでいる「掃除用具室のドア」を開けていました。
間違えた!ここは迷路か(怒)!!!
同じようなドアが並んでいるのは、何かの陰謀に違いない!
っていうか、実はこれで3回目だったりします。
なんで間違えるんだろう。。。
2003年10月13日 月曜日
パチンコ
二十歳になってから、初めて里帰りした時のことですが、
パパに「パンチコに連れて行って」とねだったことがあります。
「お前のような子どもが行くところじゃない」と叱られたのですが、
「パパのパチンコをする姿を見せてやるいい機会だから、連れて行ってやりなさい」
と、ママがパチンコ好きのパパに嫌味を言いました。
「いいか、パパのことは、オッサンと呼びなさい。パパ!パパ!呼ぶな」ときつく言われて、
パチンコに連れて行ってもらえることになったのでした。
パチンコに向かう車の中でも、約束事はつづきました。
パパ「パパのことはオッサンと呼びなさい」
パパ「誰かから、娘さん?とか聞かれても、知らないと言い張るんだぞ」
パパ「パパは一緒には座らないからな」
どうやら、顔なじみの人に、娘を連れてきたとばれるのが恥ずかしいらしいのです(笑)
あ、そうそう。こんな事も言ってました。
パパ「最初の3千円分はパパが出してやるけど、あとは自分のおこづかいでやりなさい。負けても知らんからな」
わたしは「はいはい、はいはい」と聞き流していました。
パチンコ屋さんに入ると、大音量の音楽と、アナウンスと、タバコの匂いと、機械の匂いだらけでした。
あっけにとられている間にパパがコインを用意してくれました。
パパが指定してくれた台は、パチンコではなくてスロットルというものでした。
パパは「ここにコインを入れて、このボタンを押すだけだから。パパはトイレに言ってくる」
と言い残して、行ってしまいました。
ボタンを押すだけって言っても、ルールも何もわからないし、困り果てたわたし。
周りの人がやっているのを見よう見まねで、ボタンを押しつづけました。
押すと、画面がクルクルまわって、絵の模様が変化していきます。
なんとなく、絵の模様をそろえたらいいのかな…と思っていたら、
とつぜんわたしの台から、大音量で音楽が鳴りはじめ、コインがたくさん出てきました。
まわりの人の台は静かななのに、わたしのだけうるさい!
ただでさえ、女の子だってことだけでも目立っていたのに、なんか視線が怖かった。
「どうしよう!」とパニックになりながらボタンを押しつづけるしかありませんでした。
そうして音楽は鳴りつづけ、コインも出つづけ、コインがいっぱいになってきました。
このままでは溢れてしまう!と思い、まわりをキョロキョロ…
たぶんコインを入れるために使うらしい箱が遠くのほうに見えたので、
席をたって取りに行って戻ってコインを箱に入れて、その間も音楽は止まらなくて…
しかたがないので、ボタンを押しつづけ…
パパが戻ってきたのは15分くらいしてからでした。
パパ「ジャンジャラうるさいのは、お前のところだったのか?」
わたし「パパ!遅いー!音楽がうるさいし、箱とりに行ったり、大変だったんだから!」
パパ「パパ、パパ、言うな!」
わたし「パーパー!!!(大声で)」
わたしたち2人は、みんなの注目の的でした。
パパ「よ、よし、パパが悪かった。もう出よう」
パチンコから出て、パパが怪しげなところに入っていって、
「儲かった」と言いながら出てきました。
「最初の3千円分は返してもらうからな」と言って、1万7千円をくれました。
帰りの車の中でパパに、
「初めてのパチンコで勝ったら、パチンコにはまってしまうから、もうするな」と注意されました。
「だからパパもパチンコにはまっちゃったの?」と聞いてみましたがごまかされました。
それ以来…かどうかわかりませんが、どうやらパパはパチンコをやめたようです。
わたしも約束どおり、パチンコはやっていません。
こうして何もかもがママの思惑通りにことが進んだのでした。
めでたし、めでたし。
2003年10月 9日 木曜日
視力検査
「先生、わたしの目ってすごく細いんですけど、コンタクト入りますか?」
コンタクトを初めて作るときの目の検査で、目医者さんにこんなことを質問しました。
目が細いと、コンタクトは入らないんじゃないか?と不安に思っていたからです。
先生はやさしく笑いながら「う〜〜〜ん、なんとかしましょう」と答えました。
それを聞いてますます不安になったわたしは、
コンタクトを使っている友達に相談しまくったのでした。
そして「初対面の先生にまでも、からかわれたらしい」という結論を得たのです…
そんな事も心配するくらい、わたしの目は細いのです。
子どもの頃は、目を見開いたまま、人の顔ばかり見ていて、ママを怖がらせたそうです。
それなのに、今はどうしてこんなに細い目なんでしょう。
「あれ!?目、あけてたの?見えてるの?」と人に驚かれることが何度もあります。
自分でも、目にゴミが入ったら、なんとなく嬉しいと感じてしまうほどです。
目を見開いていた頃は、それに比例して視力も2.0ありました。
(現在は、目が細いのに比例して、視力は0.08しかありません…)
小学校に入学する時に身体検査があり、その時にはママも同伴していました。
その中に視力検査も含まれていました。
視力検査って、普通は○の途切れている場所を「右・左・上・下」と答えるけど、
子供がわかりやすいように?なぜか色々な動物の絵が書いてありました。
象とかキリンが、真っ黒に塗りつぶされていて、ちょうど影絵みたいな感じで。
「これはなぁに?」と質問されるので、
「魚」とか「うさぎ」という感じで答えればよいのです。
わたしは大はりきりでした。
そういう遊びが大スキなのに加えて、上から下まで全部見えたのですから!
わたしは自信満々で「たか!」と答えました。
ママと先生が「はぁ?」と言いました。
わたしは聞こえなかったのかと思って、
「たーーーか!!!(後ろ上がりなイントネーションで)」と叫びました。
ママがあわてて「先生が指さしているのは、なぁに?」と言いました。
「だから、たかだってば。あの鳥、たかじゃないの?とんび?」
「ああ、鷹ね。あたりだよ」と先生が笑いながら言ってくれました。
「鳥って答えればいいの、わかった?」
保母さんだったママが真っ赤になって教えてくれました。
わたし「じゃあ、あのチンパンジーみたいなのは猿で、トイレのマークが人間?」
ママ「そ、そうよ………」
先生も看護婦さんも笑っていて、
ママが泣きそうな顔で「すみません」とあやまりました。
先生は「右目の視力は2.0ですね」と言いました。
人間(トイレのマーク)が一番下にあったからです。
その後の左目の検査は何事もなく終わりましたが、わたしの元気さは全くありませんでした。
どうやら、目を見開いていても、視力が2.0あっても、
わたしのボケは生まれつきのものだったようです。。。
あと、実験してみたのですが、
現在は目を見開いてみても、視力は回復しませんでした。
これで、目の大きさと視力が比例していないという事が立証されたことになります。
ということで、めがねもせず(イベントの時だけします)、コンタクトもせず(結局してない)、ボケたまま、
あぶない生活をしているのでした。
2003年10月 7日 火曜日
おじいちゃんの家
毎年お盆と正月は実家に帰省する、という人は多いと思います。
わたしも子どもの頃は両親に連れられて、母方のおじいちゃんとおばあちゃんの家に行きました。
そこはすごく田舎で、水はおじいちゃんが掘った井戸の水だったし、
お風呂も五右衛門風呂で薪を燃やして焚いていたし、
台所には備え付けのかまどがあって、そこで料理をしていました。
車が通れる道路も、遠くに小さいのが1本だけ。
汚い話ですが、ゴミが溜まれば庭で焼くし、
トイレの溜池がいっぱいになったら、おけで汲み取りしていました。
現在でもできるのかどうかわかりませんが、おじいちゃんがなくなった時には土葬でした。
そんな田舎だったので、商業施設は全くなくて、
唯一隣の村で、父方の実家が小さな商店を営んでいるだけでした。
とにかくすごく不便な土地だったので若い人はどんどん村を離れてしまって、
共働きだったわたしの両親も、比較的に都会といわれる土地に移り住んでいました。
けれどもそういう田舎は、子供からすると、村中が遊び場に見えます。
わたしと弟は、おじいちゃんとおばあちゃんの家に行くのをひどく楽しみにしていました。
春にはつくしやふきのとうをとったり、
夏には小川に入って魚を捕まえたり、蝉やカブトムシを捕まえたり、
秋には柿や栗などをとったり、
冬はお餅をついたり、火鉢で手を温めたり。
畑仕事を手伝うという名目(もちろん手伝いましたが)で、
いちじくや、ミョウガや、しいたけや、トマトや、あけびなどをとったり、
芋掘りをしたり、焚き火をしたり…
本当に楽しいことばかりありました。
おじいちゃんは、基本的に無口ですごく厳しい人だった記憶があります。
後で知ったことですが、小学校で美術と音楽を教えていたそうです。
ひいおじいちゃんが鍛冶屋さんだったことも関係して、おじいちゃんはとても器用な人でした。
たった1人で、孫のわたし達の為に子ども部屋を作ってくれたし、
2階建ての蔵も作ってしまいました。
農作業具も、料理道具も、家具も、おじいちゃんの手作りだったし、
家の柱には彫刻を施し、壁には絵画が飾ってありました。
家自体が、おじいちゃんの芸術そのものだったのです。
わたしは、おじいちゃんは厳しくて怖かったけど、おじいちゃんの家は大スキでした。
そんなおじいちゃんが亡くなったのは、わたしが小学校1年生の時でした。
広い家に、しばらくおばあちゃんが1人で住んでいましたが、
やがてその家は空家にして、わたし達と一緒に暮らすようになりました。
最初の何年かは、簡単に出来る野菜を畑に植えておいて、
収穫の時だけ取りに帰る…ということを続けていました。
けれども、わたしや弟が中学校にあがってからはだんだん足が遠のいて、
ついにはまったく行く事がなくなってしまいました。
おばあちゃんが亡くなってから、
両親も一度は「老後はゆっくり田舎で暮らそう」と考えたらしいのですが、
あまりにも不便な土地だったので、断念したそうです。
わたしが、最後におじいちゃんの家に行ったのは、高校生の時でした。
すでに親元を離れていたわたしは、両親のもとに帰省するのがやっとで、
空家になってしまったおじいちゃんの家に行くのはお墓参りの時ぐらいでした。
その頃すでに、蔵は傷み始めていました。
子どもの時には「蔵の中で遊んではいけない」と言われていましたが、
わたしは高校生になっていました。
どきどきしながら、たった1人で蔵の中に忍び込んでみたのです。
1階は、農作業具や農作業機器など。
禁止だった2階は…カマとか槍とか針金とか、危険なものがたくさん。
動物の毛皮らしきものがぶら下がっていたりして、ちょっと気味が悪かった。
一番奥まったところに本棚があって、本のたぐいが残っていました。
おじいちゃんの本?ママが学生の頃の本?
そこには音楽の辞書や楽書、楽譜がありました。
そういえば、おじいちゃんは音楽の先生だったんだ!
それまで深く考えたこともなかったけど、
子どもの部屋には電気オルガンがあったし、ピストンのないトランペットもあった。
あれはおじいちゃんのだったんだ!と改めて理解したのでした。
ねずみにかじられた楽譜を開いてみたら、おじいちゃんの手書きの文字がありました。
おじいちゃんと一緒に暮らしたことはないけど、
姉もわたしも弟も、いつのまにか音楽好きになっていたことに気づいて驚きました。
おじいちゃんがもし生きていたら、音楽の話をしてみたかったなぁと思います。
最近「おじいちゃんの家を取り壊すことになったよ」とママから電話がありました。
井戸も潰れてしまって、畑には木が生えていて、家も雨漏りがしていて、
床下がシロアリの住みかになってしまったのも知っていました。
何年も放置していたので、とうてい人が再び住めそうにないことも知っていました。
そして、とうとう「家が崩れてきた」と近くに住む親戚の人から連絡があったのでした。
ママが電話の向こうで泣いていました。
ママは一人っ子だったので、自分を責めているようでした。
わたしもなんとも言えない気持ちになってしまいました。
大スキだったおじいちゃんの家がなくなる。
いつか結婚して子どもが出来たら、絶対に連れて行きたい場所でした。
わたしの中のなつかしい場所。
いつか、わたしの家族に伝えられる日が来るといいな。
そんな、なつかしく思える場所を、わたしも作れるといいな、と思います。
おじいちゃんの家、ごめんなさい。
おじいちゃんの家、お疲れさま。
おじいちゃんの家、ありがとう。
おじいちゃんの家、さようなら。
2003年10月 2日 木曜日
ホットトマジュ〜一丁
ホットトマジュ〜を飲んだことある人いますか?
ここ何年かは飲んでいませんが、意外においしいのです。
わたしがホットトマジュ〜を初めて飲んだのは、小学生の頃でした。
ある日の夕方、めずらしくパパと二人で留守番をしている最中、
「どこかに連れて行って」とお願いしてみたことがありました。
すると自宅から徒歩3分のところにある喫茶店に連れて行ってくれたのです。
「ホットトマジュ〜一丁!」
店のウエイトレスさんがパパの姿を見るなりオーダーを通しました。
どうやらパパはその喫茶店で、いつもホットトマジュ〜を注文するあやしい常連客だったらしい。
もちろんその喫茶店のメニューにはホットトマジュ〜なんてものはありません。
なんと、むりやり注文していたのでした(汗;
「いや、今日は二丁にして」とパパが言いました。
「ホットトマジュ〜、二丁…だそうです!」
こうして、ホットトマジュ〜初体験をしてしまったのです(笑)
ホットトマジュ〜、ウマウマ♪
やっぱりわたしはパパの子だった。血はつながっているんだ。
つくづく思い知らされた。
くだものみたいなゲテモノを食べるパパと、
食べ物の好みが一致したことがすごくショックだった。
だって、ホットトマジュ〜ってゲテモノみたいだし…
夜、ママにその事を話してみました。
「わぁ、その喫茶店もう行けないわ。恥ずかしい!」とママが叫びました。
ホットトマジュ〜っていう、ゲテモノドリンクには反応しないのか?
と、その時は疑問に思いましたが、
数日後、ママが台所でホットトマジュ〜を作っているのを見て納得しました。
「ママも飲むの?」と聞いてみたら、
「ママはこんなの飲まないよ(笑)」と答えました。
姉も弟も、一口も試してみようとせず「そんなの飲まないよ」と言いました。
ママも姉も弟もわたしも、くだものはキライという仲間意識があったので、
本当は「ホットトマジュ〜はおいしいよ」と言いたかったけど、
パパと同じ種族になってしまいそうで隠してしまいました。
パパ、今さらだけどごめんなさい。
ホットトマジュ〜の作り方
材料:トマトジュース
1:トマトジュースを湯せんで暖める
できあがり
誰か、興味があったらお試しください。
ミネストローネのような感覚で、お楽しみいただければと思います(笑)